3.初めての避難所と歯科医師の苦悩

 1日目は全国からのボランティア受け入れの為の準備ということで、樋口先生のお宅での作業でした。
 2日目、もともと小学校だったところを避難所にしているところへ行きました。被災者は30人ほどで、ボランティアが入るのは私たちが初めてという、忘れられたような避難所でした。
 ボランティアに入る前に言われたのは、被災者の方々があたたかく迎え入れてくれるとは限らないということでした。なぜなら、ボランティアや身内のふりをして避難所に入ってきて、盗難をしていく人がどこの避難所でも多いらしいのです。
 この避難所には常駐している行政関係者はいませんでした。
支援物資として、玉ねぎやジャガイモなどがたくさん届いているのに、それを使う段取りができていない状況のようでした。調理室はあるので、状況を整えればすぐにでも料理できそうなのに。
 「あたたかい食べ物を口にしたのは昨日の朝が初めてですよ。」と被災者の一人がおっしゃっていました。震災から1ヶ月以上たってもそうなのかと、驚きました。カップ麺やお湯はありましたが、まともな食事は全くできてなかったらしいのです。炊き出しのボランティアも来ていなかったのです。
 私はずっと気になっていたことがあったので聞いてみました。
「生理用ナプキンは充分あるのですか?」
支援物資として届いてはいるけれど、いつ無くなるかわからないので、気兼ねしながら使っているとのことでした。 必要最小限のものはあるけれど、他のものは贅沢品と見られてしまうので、なかなか「これが欲しい」と声をあげられないものの中に、例えば石鹸、シャンプー、化粧水などがあるようでした。
 ある年配の女性が、Kちゃんのアロママッサージを受けながらポロポロと話してくれたそうです。
「津波が来るということで学校に避難したのだけど、そこにも津波がやってきた。それで皆、どんどん水位が上がる中、カーテンにつかまって耐えていた。でも途中で力尽き、カーテンから手を離しするすると落ちて、一人また一人と亡くなっていった。」
まるで芥川龍之介の“くもの糸”のようだと思いました。

 私は食堂で演奏会をと、樋口先生に言われたので、30分くらい演奏しました。年配の方が多かったので、誰でも知っているような懐かしい曲を演奏しました。“さくらさくら”を演奏したとき、ある女性が泣きだしてしまい、涙が止まらず息子さんが背中をさすっていました。

 その日は夕方5時頃撤収したのですが、「今、自分たちが接していた被災者がどこに住んでいたのか、見ておいて欲しい」という樋口先生のお考えで、その場所へ行きました。
 そこは、東松島市の野蒜(のびる)地区といって、特に津波の被害が酷かったところです。あちこちで車が逆さまになったまま放置されていました。瓦礫の山が至る所にあり、これを撤去するボランティアはどれだけいても足りないような気がしました。線路はめくれ上がって立っており、家々はコンクリートの土台だけが残っていて、建物の部分は跡形も無くなっているという状態でした。建物部分が残っている家も、2階は残っていても1階は壁が全部落ちてしまっていました。柱が弱く、大きく傾いてしまっている家も見かけました。


 そもそも私たちが被災地へ行くきっかけとなったのは、岡山の鍼灸師のTさんと仙台の歯科医師I先生とのやりとりでした。
「とにかく一度、この地に実際に立ってみてください」
 との言葉に突き動かされたのでした。そのI先生にもお会いしなければ、ということで、この日夕食を作って食べた後、私たちは仙台へ向かいました。
 仙台の繁華街は、本当にここが被災地だったのかと思うほど、普通に機能しているように見えましたが、I先生がおっしゃるには、地震の影響で人が入らずつぶれたお店もたくさんあるとのことでした。
 私たちはまず歯科医師会館に案内されました。そこには支援物資がたくさん届いていて、分配されるのを待っていました。
 I先生は、インドのマザー・テレサの活動拠点だった、通称「死を待つ人の家」に何度もボランティアで行かれている方でした。
 今は通常の診療のない日に、被災して亡くなった方の歯型照合のボランティアをされています。一日何人もの死者と向き合っていらっしゃいます。若くして亡くなった方を前にすると、涙があふれて仕方がないとおっしゃっていました。あまりにもたくさんの死者を見ているので、自分がこの世とあの世の境界にいるような危うさを感じるともおっしゃっていました。
 今回の津波で亡くなった方は、海から少し距離のあるところに住んでいる方だったそうです。地震の後、津波が来るまで1時間15分あったのですが、海のすぐそばの方はいち早く避難したのですが、「まさかここまでは来ないだろう」と思っていた方々が逃げ遅れて亡くなったそうです。
 I先生からとても辛いお話を聞きました。津波が来て、それが引いた後、あちこちの木々に小さな子供がたくさん引っかかってそのまま亡くなっていたそうです。なんて痛ましいことでしょう。
 またそれを実際に見た方々は、どれほど傷ついたことでしょう。
I先生は、
「とにかくできるだけ多くの人がここに来て、この状況を伝えてくれることを望みます。それから被災地以外の方々は、どんどん儲けて日本を元気にしてほしい。そうすれば東北はそれに引っ張られて元気になるから。」
とおっしゃっていました。
 それから、
「時間が許すなら、ぜひ石巻を見てください。瓦礫が山になっている様子はテレビで何度も見ているかもしれないけれど、それはあくまでも四角に切り取られた部分だけ。あの光景が見渡す限り延々と続いてるんです。」
とも。
 その言葉に突き動かされて、次の日の朝、私たちは石巻に行くことにしたのです。

1.私が見た被災地 2.被災地行きのきっかけ 4.石巻の惨状と次の避難所でのあたたかい交流 5.ミッション 6.最後の夜 7.とにかく行動してみませんか?

体験談
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