1日目は全国からのボランティア受け入れの為の準備ということで、樋口先生のお宅での作業でした。
2日目、もともと小学校だったところを避難所にしているところへ行きました。被災者は30人ほどで、ボランティアが入るのは私たちが初めてという、忘れられたような避難所でした。
ボランティアに入る前に言われたのは、被災者の方々があたたかく迎え入れてくれるとは限らないということでした。なぜなら、ボランティアや身内のふりをして避難所に入ってきて、盗難をしていく人がどこの避難所でも多いらしいのです。
この避難所には常駐している行政関係者はいませんでした。
支援物資として、玉ねぎやジャガイモなどがたくさん届いているのに、それを使う段取りができていない状況のようでした。調理室はあるので、状況を整えればすぐにでも料理できそうなのに。
「あたたかい食べ物を口にしたのは昨日の朝が初めてですよ。」と被災者の一人がおっしゃっていました。震災から1ヶ月以上たってもそうなのかと、驚きました。カップ麺やお湯はありましたが、まともな食事は全くできてなかったらしいのです。炊き出しのボランティアも来ていなかったのです。
私はずっと気になっていたことがあったので聞いてみました。
「生理用ナプキンは充分あるのですか?」
支援物資として届いてはいるけれど、いつ無くなるかわからないので、気兼ねしながら使っているとのことでした。 必要最小限のものはあるけれど、他のものは贅沢品と見られてしまうので、なかなか「これが欲しい」と声をあげられないものの中に、例えば石鹸、シャンプー、化粧水などがあるようでした。
ある年配の女性が、Kちゃんのアロママッサージを受けながらポロポロと話してくれたそうです。
「津波が来るということで学校に避難したのだけど、そこにも津波がやってきた。それで皆、どんどん水位が上がる中、カーテンにつかまって耐えていた。でも途中で力尽き、カーテンから手を離しするすると落ちて、一人また一人と亡くなっていった。」
まるで芥川龍之介の“くもの糸”のようだと思いました。
私は食堂で演奏会をと、樋口先生に言われたので、30分くらい演奏しました。年配の方が多かったので、誰でも知っているような懐かしい曲を演奏しました。“さくらさくら”を演奏したとき、ある女性が泣きだしてしまい、涙が止まらず息子さんが背中をさすっていました。
その日は夕方5時頃撤収したのですが、「今、自分たちが接していた被災者がどこに住んでいたのか、見ておいて欲しい」という樋口先生のお考えで、その場所へ行きました。
そこは、東松島市の野蒜(のびる)地区といって、特に津波の被害が酷かったところです。あちこちで車が逆さまになったまま放置されていました。瓦礫の山が至る所にあり、これを撤去するボランティアはどれだけいても足りないような気がしました。線路はめくれ上がって立っており、家々はコンクリートの土台だけが残っていて、建物の部分は跡形も無くなっているという状態でした。建物部分が残っている家も、2階は残っていても1階は壁が全部落ちてしまっていました。柱が弱く、大きく傾いてしまっている家も見かけました。
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