6.最後の夜

 コンサートがうまくいき、気分が高揚した状態で避難所を後にしようとしていました。すると避難所の入り口で雑談をしていた男の子たちの会話が聞こえてきました。
「俺、おしっこチビったのに気付かずに歩いてた」
 聞くところによると、それはあまりの恐怖を体験したために、腎臓の機能が弱まり、コントロールが効かなくなっている状態らしいのです。
 恐らくはたち前後の子たちだと思うのですが、そんな若い男の子たちが、そういうことを恥ずかしげもなく話していることに私はとてもショックを受けました。
 ここではそれが普通なのだと思いました。みんな、いくら明るく振舞っていても、未だに恐怖におびえているのでしょう。

 その日は、私たち4人にとって最後の夜でした。樋口先生は私たちのために、普通ではなかなか手に入らない、有名な宮城の日本酒を買ってきて下さいました。私たち4人のほかに、樋口先生のところのスタッフの方々、東京から来ていた鍼灸師の方々とで、楽しく飲みました。
 実はこの日、樋口先生は忙しくて私のコンサートに間に合わず、聴いていただくことができませんでした。それで先生がぜひ聴きたいとおっしゃったので、急遽、楽器をセッティングしてミニコンサートを開くことになりました。皆は酔っ払っていましたが、私は演奏となれば真剣にやらねばなりません。それで、被災者の方々の前で演奏した時と同じように、精一杯心を込めて演奏しました。最後に皆で何か歌いたいということで、「いい日旅たち」を歌いました。

 ここでの日々はかなりハードでしたが、よく思い出すと、樋口先生が一番動いていたような気がします。毎日入れ替わり立ち代り、全国から鍼灸師のボランティアが集まってきます。前日にあらかじめ避難所に行って、何人配置するか、避難所のどこで施術するかなどを決め、当日の朝のミーティングで指示をします。何を持っていけばよいか、どの車にどれだけ施術用のベッドを積むか、などを考えます。それに加え、毎食の時間や食材のことを気にしていただき、さらにお風呂のことまで心配して下さいました。そして、一人一人の仕事の様子や個性をちゃんと見てくださって、言葉をかけてくださったのです。素晴らしい采配でした。
こういう人に、人は付いていきたいと思うのでしょう。私もこういう人をめざしたいと思いました。
 樋口先生が車中泊は絶対ダメだとおっしゃったり、毎回の食事やお風呂のことをとても気にされていたのは、それがとても大事なことだ思っていたからだと、今ようやく気付いたのです。
 私たちは、先生のお宅で作っている野菜をいただいたり、少し歩いたところにある野草を摘んできて、食材に取り入れていました。それは本当に美味しかったのです。ヨモギはヨモギ団子になり、餡子やきなこを付けて食べたり、お味噌汁の中に入れたりしました。


野甘草、ニンニクの芽、たらの芽、カタクリの花、は天ぷらになりました。


テーブルで揚げながら、アツアツのものを食べることができ、料亭で食べるように贅沢だったかも知れません。それぞれが強く訴えかけてくるように、生き生きと個性のある味でした。

 お風呂は薪のお風呂でした。気のせいか、お湯がまろやかに感じました。そして、体の芯からあたたまりました。スタッフの理恵さんが、「お湯加減いかがですか」と、一人入るたびに声をかけるのも、何だか趣がありました。ここでは何をするにも協力し合わないといけない生活でした。でもそれが、人と人をより強固に繋げる結果になったような気がします。一日が終わるととても疲れましたが、皆でお酒を飲みながらわいわいやるのが楽しかったのです。

 被災地の大変な状況の中で、私たちが体力的にも精神的にも参ってしまうことなく元気でいられたのは、これが理由だったのだと気付きました。

「毎食、手作りの食事をいただくこと」
「あたたかいお風呂に入ること」
「心温まる交流をすること」

 自分たちがちゃんと満たされていたから、被災者の方々の声を引き出せたのかもしれない、そう思うのです。 そして、被災者の方々も本当はこんな当たり前の日常に早く戻れることを、一番望んでいるのかもしれない、と思いました。その“当たり前”が、まだまだできていない状況なのです。

 おそらくあれからずっと、樋口先生とスタッフの方々は、休むことなくボランティアに行っているのでしょう。どうかたまにはゆっくり休んでいただきたいと思います。先は長いのだから。

1.私が見た被災地 2.被災地行きのきっかけ 3.初めての避難所と歯科医師の苦悩 4.石巻の惨状と次の避難所でのあたたかい交流 5.ミッション 7.とにかく行動してみませんか?

体験談
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