No.1
 宮城県鍼灸師会の樋口秀吉会長からの支援要請のメ−ルを4月の下旬に見ました。それからメ−ルとか電話による樋口会長との直接のやり取りをした後、そして予てからボランティア治療に赴くことを希望しておられた方々と連絡調整に移り3人で、樋口会長の「被災者支援ボランティア派遣基地」へ向けて、4月30日(土)午後10時30分に息子運転のワゴン車で出発をしました。一路東北自動車を宮城県松島へ向けて進路をとりました。途中安達太良インタ−で仮眠をとり明け方5時40分頃基地に到着。仙台地方を通過する頃から、津波による惨状が見えてきました。

No.2
 やっと約7時間かけて到着。道路は所々亀裂が入り、その都度息子は丁寧な運転を心掛けてくれましたが、車はドスンとバウンドしました。私は車に弱いのに踏ん張れました。本当は被災直後から出向きたかったのですが、現地との連絡が取れませんでした。

7時間の後やっと到着
ボランティア基地局 樋口鍼灸院


No.3
 ここが今回の宿泊所。玄関に扉が無く、すぐ裏山が3月11日の地震による崖崩れを目の当たりにしたものですから、夜は真っ暗やみの中でそのことが気に掛かり、寒さと合わせて怖くて眠れませんでした。真夜中起き出して眺めた空は満天の星が輝いていました。まるで天体宇宙ショ−の実在でした。体はブルブル震えていましたが。
基地局内の宿泊所
崩れた裏山


No.4
 すぐ裏の鉄道は線路が曲がり、未だ不通。
手樽駅
曲がってしまった線路


No.5
 基地局に咲いてあったお花。どんな時でも花はきれいに咲くのですね。
このお花たちは震災をなんと考えているでしょうか。

これが今晩のおかずの材料であったと後で気がつきました。


No.6
 「東松島市小野市民センター」 201名の方々が避難されている所。


No.7
 やはりこの手の車をみると物々しさを感じます。
自衛隊車両


No.8
 「鍼灸は医療であるという」樋口会長のお考えから、ちょっとの間だけでも区切られた空間でプライバシーを獲得し、わずかな時間でも脚を伸ばしてお休みをして頂けるようにと、テントを張り、ブルーシートで囲い、即席ではありますが治療処を設けました。テント内にはスト−ブも持ち込まれました。
即席ではありましたが充分役割を果たした治療処


No.9
 いよいよボランティア治療が始まりました。1日の10時頃。避難所の方々は夜が眠れない、肩こりがひどい、腰と膝が痛い、高血圧などの症状が多くみられました。
準備された治療道具
特定非営利活動法人ジン・アルコから提供をしてもらった鍼

治療中の筆者


No.10
 ちょっと手が空くと、寄ってくる避難所の子供たちと仲良くなりました。寄贈された子供用の自転車で元気に走り回っていました。
子供たちと仲よくなった息子
寄贈された子供用自転車


No.11
 施設の横では、自衛さんたちによる夕食の準備が始まりました。小野市民センタ−の人たちは毎回あったかい食事を食べられるそうです。右テントの中がイカツイ大釜です。
さすがは自衛隊。装備が違います。


No.12
 本日の治療は終りました。鍼灸師7名(内訳は東京組の私たち3名と経絡治療学会の3人組、地元の鍼灸師1名と学生1名で26名の方々に治療を行いました。テントを片付後集合写真1枚。
ボランティアの同志


No.13
 帰りの車窓から惨状を撮影しました。いたるところがこんな状態です。


No.14
 5月1日夕方。4月30日に東京からこられた経絡治療学会の3人の帰り仕度。
帰り支度をしている同志
別れの時


No.15
 樋口先生前列真ん中、を囲んで岡山、京都、名古屋、長野、横浜から来たボランティアの人たちと経絡治療学会の3人組と私たち東京組の3人。名残惜しくお別れです。
みんなでの一枚


No.16
左)横浜からの黒澤学生さん。
中)長野から駆けつけたボランティアの原田さん。
右)樋口鍼灸院の研修生小原さん。
夕食を作っているところです。
No.17
 すぐ近くでとれる山野草のてんぷらは絶ピンの美味でした。
近くで採れた山菜
山菜のてんぷら
ほうとう汁


No.18
左)は京都から見えたアロマセラピストのかなさん。
右)名古屋からシンセサイザー奏者で作曲・編曲をやっておられるひらののりこ(このままでホームページ開けるそうです)さん。のりこさんのことは、また後でふれます。
かなさんと平野さん


5月2日 5月3日

体験談
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